はじめに

「人的資本経営」という言葉が定着して久しくなったと思います。上場企業において有価証券報告書での情報開示が義務化されるなど、「人を資本と捉え、投資する」ことは、上場企業を中心に経営のスタンダードになっていると思います。

昨今のAI技術の爆発的な進化に伴って、新しく「トークン資本経営」という経営概念が生まれていることを最近知りました。

今回、この二つの概念について整理して考察をしてみたいと思います。

人的資本経営とは?

かつての経営における人件費は、「いかに削るべきか」が問われる「コスト(費用)」として扱われがちでした。
これに対し人的資本経営では、従業員のスキル、経験、意欲などを価値を生み出す源泉=資本へと転換し、そこに積極的に投資することで中長期的な企業価値を高める経営手法です。
具体的には、リスキリング(学び直し)の支援、多様な人材の登用(ダイバーシティ)、ウェルビーイング(心身の健康と働きがい)の向上などを行います。

トークン資本経営とは?

この概念は、米マイクロソフトCEOのサティア・ナデラ氏が提唱し、ビジネス界の注目を集めました。ここでの「トークン」とは、仮想通貨(暗号資産)やブロックチェーンのことを指していません。AIモデルにおける情報処理の最小単位を指します。つまり、トークン資本とは 「AIが処理・蓄積する企業独自のナレッジや能力」 のことです。

AIの利用料を単なる「削減すべきITコスト」として扱うのではなく、組織の暗黙知やノウハウをAIが使えるデータ(トークン資本)として蓄積し、企業の競争力にするという考え方です。
具体的には、優秀な社員の判断基準や社内のノウハウをAIに学習させ、組織全体で引き出せる独自のデジタル資産として育てていきます。

人的資本とトークン資本の比較

この2つの概念は、経営におけるパラダイムシフトという点で同じ構造を持っています。
どちらも、これまで「単に消費・利用して終わるもの」として扱われていた対象を、「中長期的に育て、蓄積していくべき資本(資産)」へと捉え直すという共通点があります。

2つの資本に対する考え方や行動について、以下の表に整理をしました。

比較項目 人的資本(人) トークン資本(AI)
資本の対象 従業員のスキル、経験、意欲 AIに蓄積された自社独自のナレッジ
以前の捉え方(Before) 人件費=いかに削るべきかという「コスト」 業務を効率化するための単なるデジタル「ツール」
概念による変化(After) 投資することでリターンを生む「資本」 知見を蓄積し複利で成長する独自の「知的財産」
具体的なアクション リスキリングの支援、働きがいの向上 優秀な社員の暗黙知や判断基準のAI学習
競争優位の源泉 従業員の創造性や柔軟な問題解決能力 他社が模倣できない自社独自の学習ループ

2つを並べてみると、トークン資本の考え方が見えてきます。

これまでのITツールや、導入しただけの汎用的なAIは、業務を効率化して終わりの「単なる便利なツール」でした。
しかしトークン資本経営では、AIをそこで終わらせず、社内の優秀な人材が持つ「暗黙知」や「独自の判断基準」をAIに学習(投資)させます。これにより、AIを単なるツールとして消費するのではなく、使えば使うほど自社の独自の知見(知的財産)として蓄積され、複利で成長していくデジタル資産へと育てていく、という考え方になります。

人的資本とトークン資本がもたらす相乗効果

AIにノウハウを蓄積することにより、人間の仕事や価値は下がってしまうのではないか、という考え方もあると思いますが、トークン資本経営は、その逆を目指していると考えています。
トークン資本が増えるほど、人的資本の価値も飛躍的に高まる、つまり、両者の関係は足し算ではなく「掛け算」になっていると思います。

自社のトークン資本が優れていても、それを使う人的資本が質の高いプロンプトを投げるスキルや、AIの回答を活かす力がなければ、成果は少なくなる、またはゼロになると思います。
例えば、AIが膨大なデータから「最適な提案」を導き出せるようになったとします。しかし、顧客の微妙な感情や思いを読み取ったり、共感したり、決断を後押しすることは難しいと思います。AIに「どのようなプロンプトを投げるべきか」「どの課題を解決させるべきか」という本質的な課題設定や判断ができるのは、現場を理解している「人間」になり、その能力によってAIのスキルが最大限に活用できるようになると思います。

つまり、従業員がリスキリングによって新しい視点を持ち、思考力を深めれば深めるほど、AIから引き出せる価値は跳ね上がるのでは、と考えます。

おわりに

「トークン資本」という新たな概念は、これまでの人的資本と全く異質の考え方なのだろうか、と当初は考えていました。しかし、ナデラ氏のXの投稿を読み進めるうちに、人的資本への投資を継続しながら、並行して日々の業務から生まれる知見をAIに吸い上げ「トークン資本」として蓄積していくことなのだ、と理解することができました。
もう一点、ナデラ氏の投稿から伝わってきたのは、少数の巨大なAIモデルが全ての価値を独占してしまうことへの危機感です。企業が自社の知見をただ汎用的なAIに入力し、便利に使うだけで終わってしまったら、長年培ってきた業界の専門知識やノウハウはあっという間にAIに吸収され、誰でも使える一般的なもの(コモディティ)へと価値が下がってしまいます。
トークン資本経営の本質は、ただAIを賢くするだけでなく、その「学習のループ」を自社固有の知的財産(IP)として、自分たちの手で所有し、コントロールし続けることにあるのだと思います。

これからの時代、AIを便利なツールとして導入して満足するのではなく、自社の人材とAIをどう育て、どう掛け合わせて自社だけの学習ループを作っていくのか。その実践と展開に、私自身も引き続き注目していきたいと思います。