こんにちは、DX開発事業部の山中です。Google Cloud Next ’26 に現地参加しています!

この記事は Google Cloud Next ’26「The story of Gap Inc.’s AI powered retail evolution」のセッションレポートです。Gap Inc. の CTO Sven Gerjets さんと、Google Cloud の Ranu Bhatia さんによる Lightning Talk の対談形式で、「10億ドルの利益にスイングした Gap が、AI をどう企業変革の基盤に据えているか」という、かなり中身の濃い20分間でした。

Customer Theater のステージ、Sven Gerjets 氏と Ranu Bhatia 氏

こんな方におすすめ

  • Google Cloud を使った大企業の AI 実装事例を知りたいエンジニア
  • クライアント案件で AI 導入を提案する立場のエンジニア
  • 自分のチーム・組織に AI を広げる動きをやっているエンジニア
  • エージェント前提のデータ基盤がどう語られているかに興味がある方

登壇者

  • Sven Gerjets さん(EVP, Chief Technology Officer, Gap Inc.)
  • Ranu Bhatia さん(Director, Fashion, Beauty and Specialty, Google Cloud)— モデレーター

Gap は「AI で完全に土台を作り直す」フェーズに入っている

冒頭、Ranu さんから Bloomberg の報道に触れる質問がありました。「Gap Inc. の純利益が直近数年で10億ドルの利益にスイングした」。そこから「この成長を持続させる上で、AI はどういう役割を果たしているのか?」と切り込んで対談がスタートしました。

Sven さんの回答がインパクトありました。

It’s not about dabbling in AI. It’s not about sprinkling it around. It’s about how do we really recreate the foundation of the company and rebuild it on an AI foundation that’s going to last into the future.

AI をちょこちょこ試す」「AI をまぶす」ではなくて、会社の土台そのものを AI 前提で作り直す、という主張です。モバイル・インターネット・ソーシャルと何度も変革を見てきた Sven さんが「こんなスピードの変革は見たことがない」と言い切っていたのが印象的でした。

顧客の行動も、従業員が ChatGPT で履歴書を書いて入社してくる時代感も、根本から変わっている。AI ネイティブでない基盤のままでは遅れる、という危機感がベースにあります。

3 層ピラミッド: Enable / Optimize / Reinvent

Gap が AI 変革にアプローチする方法として、3層のピラミッドが紹介されました。ここがセッションの中心でした。

Layer 1: Enable(チェンジ・フライホイール)

底辺の層で、全従業員の手元に AI を届け、マインドセットを転換させる取り組み。AI を「ツール」ではなく「パートナー」として使う思考へ切り替える教育です。

ここで紹介された社内実験が面白かったです。400人を2グループに分け、

  • グループA: AI の使い方だけ訓練
  • グループB: AI の使い方 + 「マインドセット転換」の訓練

を実施。

両方に同じ AI プロセスで仕事をさせた結果、グループBは成功確率が2倍だったとのこと。

ツールとしての操作だけ教えてもダメで、「AI が自分の仕事にどう入ってくるか」を認知レベルで書き換えることが、実は変革の潤滑油になる。「AI の使い方講座を作って終わり」では成果が出ない、というのが定量データで出ているのが興味深いところでした。

Layer 2: Optimize(スピード&イノベーション・フライホイール)

中層で、「ミドル to ミドルな問題」と呼ばれる、いわゆるヒット打者的な施策を回す層。Office of AI というチームがあって、事業部・プラットフォーム企業・VC・エンジニアリンググループをつなぎ、「どこに AI で解くと価値が出る領域があるか」をマッチングする役目を担っています。

ここでの PoC に対して、Sven さんが業界の通説に異を唱えていました。

There’s a lot of talk out there about how proof of concepts are dead, you need to get to scale. I absolutely don’t believe that.

PoC はもう古い、スケールに行け」という論調に、「全く同意しない」と言い切り。「先週できなかったことが今週できるようになる時代に、数ヶ月先だけ見ていたら機会を逃す」と、テスト&ラーンのペースを守る重要性を強調されていました。

AI の進化速度を現場感覚で捉えているフレーズで、腑に落ちました。

Layer 3: Reinvent(スケール・フライホイール)

最上層で、プロセスを分解し、エージェントがやる仕事と人がやる仕事を見極めて、再構築する取り組み。ここが真のデジタルトランスフォーメーション領域で、「何十年も避けてきた、難しいからこそ後回しにしてきた仕事」と Sven さんが表現されていました。

そしてここが経済的には主役で、Optimize のベースヒットは成功率50%程度だが、Reinvent が投資全体を10倍で回収する、と明言されていました。

ピラミッドモデルの秀逸なところは、全層を同時並行で走らせる設計です。Enable で組織を巻き込み、Optimize で短期的価値を刈り取り、Reinvent で本質的な変革を仕込む。よくある「まず PoC、それからスケール」の直列思考とはまったく違う戦略だと感じました。

この全体がさらに 「顧客ジャーニー」「プロダクトジャーニー」「エンタープライズジャーニー」 の3軸で整理されているとのこと。抽象度高めですが、企業の AI 実装をフレームで捉える整理として頭に入れておきたい構造でした。

なぜ Google Cloud を選んだのか

Gap は元々 Google を大きく使っていた組織ではなかったそうで、Ranu さんから「なぜ Google がパートナーになったのか」という直球の質問がありました。

Sven さんの説明は段階的でした。

データ基盤のリセットが出発点だったとのこと。数年前に Sven さんが入社した時点で、Gap のデータ環境は lift-and-shift の寄せ集めで、レポーティング用の構造になっていた。エージェントが自律的に動く世界には到底耐えない。

We’re not moving data from one platform to another. We’re actually relaying it down on a new end-to-end data model.

プラットフォーム間の引っ越しではなく、エージェント結合・セマンティックレイヤー・コンテキスト・ガバナンスを前提にした新しいエンドツーエンドのデータモデルを一から敷き直しているとのこと。レガシーデータ環境が抱える問題をそもそも作らない、というアプローチです。

Google Cloud を選んだ理由として、

  1. Google Cloud のコスパ(performance for price)
  2. フルスタック戦略 — データをクリーンに敷くだけでなく、エージェントからも既存システムからも使いやすい構造
  3. リアルタイム・ストリーミング前提の基盤として強い
  4. リテール領域のドメイン知識(「チェリー・オン・ザ・トップ」と表現)

特にフルスタックの話が印象的でした。Sven さんは「これまで、アプリに実装されたコア機能が魔法であり体験だった。今は、データこそが体験のドライバーで、エンジニアリングはその相互作用のフレームワークに過ぎなくなった」と表現されていました。

データの位置づけがアプリ中心からデータ中心にパラダイムシフトしている、という整理は、なんとなく感じていた潮流を言語化してもらった感覚でした。

ROI: 単一指標ではなく、層ごとに違う

Ranu さんから「成果をどう測っているか」という質問がありました。これも多くの企業が悩んでいる部分です。

Sven さんの答えがクリアでした。

There is no one right ROI for AI.

「AI の正しい ROI は1つではない」。そして層ごとに測定する指標が違います。

主な ROI 指標
Reinvent(顧客体験系) 売上・収益
Optimize(業務最適化系) 利益率・コスト削減
Enable(従業員エンパワメント) 生産性・時間解放

「新しいパーソナライゼーション機能を、どうやって純粋な利益率だけで測るんだ?」という問いかけは、非常に実務的でした。Enable の ROI は実質的に計測不能だけど組織の土台として最も重要で、Optimize の明確な ROI が Enable を支え、Reinvent の大きなビジネスケースが長期回収を担う、という積み上げ構造。

エンジニアとして AI 案件の効果を説明する場面でも、「どの層の話をしているか」を先に揃えると議論がブレにくくなりそうだなと思いました。

従業員の AI 抵抗感をどう解くか: Sketch to Render の逸話

後半の個人的ハイライトが、デザイナーの AI 受容プロセスの話でした。

Sven さんはデザインコミュニティと働いた経験が長く(前職 Mattel)、デザイナーがまず AI にどう反応するかをよくご存知です。最初は大きな恐怖と反発。しかし、実際に触らせて、お互いに教え合う場を作ると、驚くほど早く関係性が変わるとのこと。

First of all, this can’t do what I do. So that replacement fear is out the window pretty quick.

触ってみたら「これは自分の仕事の代替にはならない」とすぐ分かるため、代替される恐怖が早々に消える、と。新商品の企画に「1行プロンプト」で済むわけがなく、専門性とドメイン知識が前提のパートナーシップだと気づくからです。

そして具体例として、Sketch to Render(デザイナーのスケッチを 2D/3D/動画の完成アセットに変換する機能)。

最初、デザイナー側は「NO」だった。ところが Gap 側のライセンス交渉・実装に時間がかかっていると、あるデザイナーから Sven さんに電話がかかってきたそうです。「あと1週間で決めてくれないと、自分のラインに間に合わない」。

1ヶ月半前は AI に強く反対していた人が、「AI を吸い込むような存在」になって逆にプレッシャーをかけてくる側に変わる。この「押し付けから引っ張り込みへの転換」が、変革の最も面白い瞬間だと語られていました。

エンジニア視点だと、新しいツール・フレームワークを導入する時の「最初の反発 → 触ってみて安心 → むしろ催促してくる」という流れは見覚えがあります。AI の組織導入でも同じ曲線が起きる、と整理されていて納得感がありました。

Human-centered, digitally enabled

セッションを通じて繰り返されたフレーズが、「Human-centered, digitally enabled(人間中心で、デジタルに支えられる)」でした。

Sven さんの比喩が良かったです。

Tech is a capability. It’s our craft. But what we’re really in this for is to drive business outcomes.

配管工はレンチの話をしない。会計士は数式の話をしない。技術者が技術の話をするのも、それ自体が目的ではない」。技術はクラフト(職人の道具)であって、本質はビジネスアウトカム。

AI で派手な機能を作ると「ナード(オタク)には魅力的だけど、顧客の前に出すと単にキッチュ(安っぽく見える)」と切り捨てていたのも印象的でした。顧客や従業員にとって本当に意味のある能力だけ届ける、という設計ポリシーです。

ファッション業界は「人の対話」で成り立つ業界なので、AI を入れてもその文化を壊さないで乗せる、というメッセージが最後まで一貫していました。

まとめ

20分の Lightning Talk ですが、情報密度がかなり高いセッションでした。持ち帰りポイントをまとめます。

  1. AI は「まぶす」ものではなく「土台を作り直す」もの — ちょこちょこ試すのではなく、企業基盤を AI 前提で再構築する
  2. 3層ピラミッドを同時並行で走らせる — Enable → Optimize → Reinvent を直列ではなく並列で回す
  3. マインドセット転換が成功率を2倍にする — 操作トレーニングだけでは足りない、認知の書き換えが変革の潤滑油
  4. ROI は層ごとに違う指標で測る — 単一指標で測ろうとしない、多面構造で積み上げる
  5. データは「移動」ではなく「敷き直す」 — レガシー構造のまま乗せ替えではなく、エージェント時代を前提に再設計
  6. Reinvent が投資を10倍で回収する — ベースヒットは成功率50%、真の回収は難しい領域の変革

Sven さんの語り口は、バズワード的な派手さを抑えた、現場の戦略責任者の言葉として納得感がありました。特に「PoC はもう古いという論に全く同意しない」は、AI の進化速度を実装側で感じている人間としては腹落ちする一節でした。

最後に Victoria Beckham コラボのプロモ話で終わるあたりも、技術セッションなのに完全にリテール CTO 感があって、良い余韻でした。

参考リンク