アイレット社員の本音を深掘りするインタビュー企画。

今回登場するのは、アジャイル事業部を統括する事業部長の平野 健介。
新卒で KDDI に入社し、10年以上のキャリアを積んだにもかかわらず、“中堅”と呼ばれる30代になってからグループ会社のアイレットに転籍した彼に、これまでのキャリアやアイレットに入社しようと思った決め手、アイレットでしか得られないものはなんなのかをストレートに聞いてみました。

(聞き手:iret.media 編集長 一筆太郎)

アジャイル事業部 事業部長
プロジェクトマネージャー
平野 健介 KENSUKE HIRANO
2006年、新卒で KDDI に入社。キャリア決済の ID 基盤を立ち上げるプロジェクトをはじめとする大規模案件を担当。2017年よりアイレットに出向し、SIer の立場で KDDI のプロジェクトを中心にさまざまな開発案件を推進する。2022年、アイレットに入社。アジャイル事業部の事業部長として、全体の統括管理、案件獲得・提案活動、採用などに携わる。

テレビ局の内定を辞退し、イノベーションを夢見て KDDI に入社

平野さんは30代で KDDI からアイレットに転籍されましたが、グループ会社とはいえ10年以上勤めた大企業からベンチャー企業に籍を移すのは、側から見るととても勇気のある決断のように見えます。
なぜそのような進路へ舵を切ったのか、KDDI ではなくアイレットで実現できることや期待したことはなんだったのか?ちょっと不躾なこともお聞きするかもしれませんが、伺ってまいりたいと思います。


了解しました。なんでも聞いてください(笑)。

ちょっと遡った質問になりますが、そもそも平野さんは、なぜ新卒で KDDI に行こうと思ったんですか?


僕、大学生の時に社会人と接点がなかったこともあって、就職するのがめちゃくちゃ嫌だったんです。人生の終わりだって思うぐらい憂うつだったんですけど、ある時、テレビ局から新卒向けの案内が家に届いて…。理系の学生だったんでマスコミ業界とかテレビ業界は全然考えてなかったんですが、試しに見学会に行ってみたら、ものすごく魅了されて一気に憧れちゃったんです。


何がそんなに刺さったんですか?


局のエンジニアとして働いている OB の先輩に会ったんですけど、謙虚で大人しそうなタイプなのに、話す言葉が全部かっこよくて、すごく輝いて見えたんですよね。それと当時はインターネットとテレビ放送の融合がテーマになっていてテレビ局内外でそういう動きがあった時期で、自分も局内のエンジニアの立場で、そのようなイノベーションに挑戦したいという期待が一気に膨らみました。


なるほど、それでテレビ局に応募を?


はい、大学3年のときに片っ端から受けて、全部落ちました(笑)。テレビ業界の技術職って採用人数が数名で、そこに数百人、数千人と応募が来るような狭き門の世界ですからね。それでも諦め切れなくて、大学院に進んで自分なりに勉強して再チャレンジしました。その結果、1社から内定を頂きました。


すごい!念願が叶ったんですね。


はい。そうなんですが…いざ配属面接を受けたら最初の5年間はカメラマンをやってほしいと言われたんです。今でも先方に申し訳ないことをしたと思っているのですが、「IT のイノベーション、起こせないなぁ…」と思ってしまって。結局、内定を辞退しました。


カメラマン!? それは話がかなり変わってきますね。


当時はとにかく IT 革命を起こしたかったんです(笑)。ただ、幸いテレビ局は他の業界よりも就活の時期が早かったので、IT 業界や製造業界、印刷・出版業界など大手を中心にいろんなところを受けました。


印刷・出版業界も受けたんですか?


はい。当時はまだガラケーの時代で、iPod が流行っていたんですけど、音楽の次は電子書籍が来るって思っていたので。でも最終的には電波がイノベーションの鍵になるのではないかと考えて、KDDI を受けました。


イノベーションを起こすことが平野さんの社会への入口だったんですね。そして、KDDI がその相手になったというわけですね。

出世する同期たちに取り残される日々。
企画部門への異動が転機に急成長、大挽回

KDDI 入社後はどんな仕事をしていたんですか?


入社後、最初に配属されたのは開発部門です。当時、KDDI の開発はまだ内製化していなかったので、外部の開発パートナーに発注して、開発パートナーの PM とコミュニケーションを取りながら進行や品質を管理するのが主な仕事でした。


それって、けっこう大変だったんじゃないですか?


はい、辛かったです。開発の知識や常識を知らないので、担当者に的外れな質問をして「意味が分からない」と言われてしまったり、何をやっても馬鹿にされたりと、手厳しい扱いを受けることも多々ありました。


何年くらい辛い状況は続いたんですか?


1年間ずっと辛くて、そこから約半年後にたまたま人手が足りなくなったタイミングで、リリース前のシステムのテスト検証をする機会をもらえました。そこで実際にコマンドを打ったり手順を作ったりする中で仕様のことを深く理解することができたんです。
さらに、動作確認をしている時に一つ大きなバグを発見して、そのことで開発パートナーからも信頼を得られるようになり、初めて自分が貢献できた感触が得られたというか、歯車が噛み合い出した感覚がありました。


1年で辛い時期を乗り越えられたのは幸運と言えるかもしれないですね。それを転機に状況はかなり変わったんですか?


いえ、以前よりも楽しく仕事ができるようになったものの、やっぱり僕は新しい技術や新しいビジネスを立ち上げることに興味があったので、そこに携われないことにモヤモヤしていました。それなら最初からベンチャーに行けよって話なんですが、当時はネームバリューにもこだわっていたので(笑)。でも、他の部署に行った同期たちがどんどん出世していったこともあって、取り残された気持ちを抱いていましたね。

実際に転機が訪れたのはそれから数年後でした。企画部門がキャリア決済に関する新規事業を企画する際、開発ができる人を貸してほしいということで、僕に白羽の矢が立ったんです。一時的に異動する、いわゆるレンタル移籍ですね。


企画部門の新規事業。やりたかったことがありそうな場じゃないですか!ようやく念願が叶いましたね。


めちゃくちゃ楽しかったです。結果的にその時に開発した新しいシステムは今のスマホ向けのキャリア決済の基盤になっているので、KDDI という会社にとって重要な開発に携われたことも嬉しかったですね。
その後、いったん元の部署に戻るのですが、社内公募制度を使って2010年に正式な異動が決まり、そこから2017年まで ID とキャリア決済の企画・開発に一貫して携わりました。それこそ、水を得た魚のように生き生きと働くことができていたと思います。


いいですね、水を得た魚。僕もなってみたいです(笑)。就職活動から数年経って、最高の環境を手に入れられたんですね!平野さんにとって、その環境のどんなところが合っていたんでしょうか?


当初所属していたのが開発管理を行なう部署で、品質が確かなシステムをつくる、リスクを洗い出した上で進める、そのためのプロセスをしっかり踏むということが重視されました。
一方で、異動した部門は新しいことにスピーディーにチャレンジしていく文化で、走りながら考える・次々に実行プランたてて動かすっていうやり方でそれが自分に合っていたんだと思います。

リーダーの意識も芽生えたベストな環境と次のステップ

その異動後7年間も同じチームにいた、という話ですが、7年間も同じチームにいると、組織の論理や政治みたいなものに染まってしまいそうですけど、平野さんはそうならなかったんですか?


幸い、僕が所属していた部署は比較的ベンチャーライクな部署だったので、そこまで組織に染まるという感覚はなかったですね。一方で、リーダーとして組織を引っ張っていく自覚を持つようになったのもこの頃ですね。


キャリア的にもステップアップできたんですか?


はい、上司に恵まれたおかげで、異動後に自分の実力をより強く発揮できたり成長することができ、リーダーの役割を担えるようになりました。今思えば、とても貴重な経験をさせてもらえたと思っています。

でも、さすがに7年間も同じ場所に居続けると、“ぬるま湯”になってくるんです。やりたいことができるのは楽しいのですが。サッカーの本田圭佑選手が「より厳しい環境に身を置くことで人は成長できる」と言っているのを聞いて、このままでいいのかなって悩むこともありました(笑)。

そして、2017年3月に突然アイレットに出向することが決まったんです。


— アイレット出向後、平野が衝撃を受けた出会いとは?そして、アイレット転職を決断した理由とは?続編に続きます。